【蒙古の怪人】キラー・カーン自伝 書評。
いやぁ、怖い顔ですねぇ。この記事を開いた方、いきなり閉じないで下さい(^_^;)
【キラー・カーン プロフィール】
本名 小澤正志
身長195センチ 体重140キロ
1963年 大相撲の春日野部屋に入門。
1971年 日本プロレスに入門。同年6月デビュー。
1973年 新日本プロレスに移籍。
1977年 メキシコへ海外遠征。
1979年 キラー・カーンとして北米を中心に活躍。
1984年 ジャパンプロレスに参加。
1987年 現役引退。
本著より抜粋
【私の中のキラー・カーン】
キラー・カーンを始めて見たのは、これも金曜8時の新日本プロレスですね。
日本人としては、体がでかくて、顔が怖くて、弁髪のあるモンゴル人。今考えると、凄い設定ですね(^_^.)
あと「きぇーっ」と甲高い声を出してのモンゴリアン・チョップですね。
ただ正直言えば、印象に残っている試合は、ほとんどないですね。アンドレとのリーグ戦の決勝戦位かなぁ。
長州の維新軍にも入っていましたが、長州と浜さんのタッグは印象に残っていますし、マサさんの事もよく覚えているのですが、キラー・カーンの印象は薄いですね。
ジャパンプロレスに移籍し、全日本プロレスへ参戦
正直、全日本時代も印象がないんですよね~。
唯一、印象に残っているのは、相手がロード・ウォリアーズだったと思うんですが、キラー・カーンがGパンを履いていて(体がだぶついていた)、途中で長州が助けに来て、キラー・カーンをコーナーに押し込めて守っていたんですけど、仲間割れして、長州ともロードウォリアーズとも戦っていたのを覚えているんですが、どういう設定だったんですかね(?_?)
で気付いたら、引退していて、居酒屋やスナックをやっていました。
キラー・カーンの自伝を買った理由
ここまででしたら、単に印象の薄い、体の大きいレスラーなのですが、後年キラー・カーンがアメリカで大成功していたと知りました。
私、海外で成功した日本人レスラーって大好きなんですよ。古くはジャイアント馬場さんとか、マサ斎藤さん、グレート・カブキとかね。
それで、当時のキラー・カーンの事を知りたいなぁと思っていたんですけど、あまり扱っている本も少なくて、と思っていたら自伝が発売されました(^-^)
最近は、プロレス本も中古で買う事が多いのですが、この本は発売当初に新刊で買いましたね。
さて内容は、どうだったでしょう?
【蒙古の怪人、キラー・カーン自伝 書評】
まえがき
まえがきでは、ニューヨーク、マジソン·スクェア·ガーデンでのアンドレ・ザ・ジャイアントとの試合前の模様が述べられています。やはり、キラー・カーンのプロレス人生にとっては、この時代がクライマックスなのでしょうね。
生い立ち
第一章では、生い立ちが語られています。小さい頃に父親が家を出ていったようで、お母さんが苦労して三人兄弟を育てられたようですね。
大相撲時代
第二章は、大相撲の春日野部屋時代のエピソードですね。やはり、これだけ体が大きければ、スカウトが来ますよね。
相撲時代は、幕下と三段目あたりを行ったり来たりしていたようですね。また体重も思うように増えなかったようです。
日本プロレス時代
第三章では、相撲に限界を感し、日本プロレスに入門する頃のお話です。キラー・カーンも藤波辰爾と同じく北沢幹之さんがきっかけだったのですね。またケンドー・ナガサキとは、ほぼ同期のようです。
この時代の日本プロレスは、BI砲と言われた、ジャイアント馬場とアントニオ猪木の二人が絶対的なエースだった頃ですね。
入門当初に、これまでで一番印象に残った外国人レスラーとして、モンゴリアン・ストンパーの名前を挙げています。モンゴルつながりといったところでしょうか。
第四章では、日本プロレス時代の練習内容とデビュー戦についてが詳しく紹介されています。相撲時代はなかなか体重が増えなかったようですが、プロレスを始めてから、筋肉が付き体重も増え始めたようです。
第五章は、同期の練習生や付き人をやっていた吉村道明さんについて書かれていますね。吉村さんには、可愛がってもらっていたようです。
第六章では、キラー・カーンが日本プロレスに入門した年に起きた二つの事件について述べられています。
一つは、アントニオ猪木がジャイアント馬場に挑戦した事件ですね。当時、UNヘビー級の王者だった猪木がインターヘビー級の王者だった馬場さんに挑戦した件です。
現在では、日本人のエース同士の対決も珍しくも何ともありませんが、当時は考えられない事でした。負けたほうは、絶対的に商品価値が下がりますからね。
特にこの時代はテレビ局が、猪木と馬場にそれぞれに付いていましたからね。実際には実現するのは無理だったでしょうね。
近年で言えば、新日本とUインターの抗争で、初めに武藤に負けた高田の価値は、想像以上に落ち、後のUインターの崩壊につながっています。古くは力道山と木村政彦、猪木とストロング小林なんかも同様の結果です。
日本プロレスのクーデター事件
もう一つの事件も主犯格は、アントニオ猪木ですね。やはり猪木は、昔から波乱が好きだなぁ(^_^;)
猪木が馬場や上田馬之助を巻き込んで、当時の日本プロレスの幹部達を追放して、現役選手達で健全な会社運営を図ろうとしましたが、結局幹部達にばれてしまい、猪木は日本プロレスを追放されてしまいます。
ここらあたりの話は、昔「プロレス・スーパースター列伝」で読んだなぁ。懐かしいです。
猪木の場合は、後に新日本プロレスで、山本小鉄らに、逆にクーデターを起こされてしまいますが、因果応報というやつですかね。
初の海外遠征は韓国へ
第七章では大木金太郎のブッキングにより、初めて海外へ遠征し、韓国で試合をしたことが述べられています。
また同時期に、日本プロレス入門後、ずっと付き人をしていた吉村道明さんが引退し、今後は坂口征二の付き人をする事になりました。坂口さんに付いた事が、キラー・カーンの今後の運命を決めていく事になります。
第八章では、日本プロレスが崩壊し、紆余曲折ありながら、坂口征二と共に新日本プロレスへと移籍していきます。
新日本プロレス時代
第九章では、当時の新日本の若手選手達が紹介されています。またこの時期にキラー・カーンの生みの親ともなるカール・ゴッチとも出会っているようですね。
また後の因縁の相手となる長州力も入門してきます。
第十章、新日本に移籍してからは、外国人選手との対戦も増えてきて、74年には、後にアメリカでドル箱のカードとなるアンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦しています。
ただし、若手の登竜門だった「カール・ゴッチ杯」では一年目が準優勝だったにも関わらず、翌年の第二回大会では全くふるわず、海外遠征への道は遠ざかっていきます。
第十一章では、「猪木VSアリ」戦について語られていますね。キラー・カーンも猪木の練習パートナーを務めていたようです。
西ドイツへ海外遠征
第十二章では、初の本格的な海外遠征として西ドイツへ藤原喜明と共に旅立ちます。凱旋後は、猪木とタッグを組んでメインイベントに起用されるなど、少しポジションも上がってはきたようです。
猪木のパキスタン遠征にも同行し、アクラム・ペールワン戦でもセコンドについていたようですね。やはり、かなり異様な雰囲気の会場だったと述べています。
ただし、本人は翌年以降も伸び悩み、何とか現状を抜け出すきっかけを求めていたようです。
メキシコへ
第十三章、77年からは帰国時期の決まっていないメキシコ遠征へと旅立ちます。このメキシコ遠征からモンゴル人としてのキャラクターとして試合を行うようになったようです。
また、このメキシコから、所謂「ヒール」としての仕事もしていきます。
メキシコでは、ミル・マスカラスのIWA世界ヘビー級のタイトルにも挑戦していますし、カネックのUWAヘビー級にも挑戦しています。メキシコでも徐々にポジションが上ってきているようですね。
いよいよ本場アメリカマットへ
第十四章、いよいよ本格的にキラー・カーンが米国マットに登場します。私のようなオールドファンは、アメリカマットというだけで、勝手にワクワクしてきます!(^^)!
最初に渡ったのは、フロリダのマットで「キラー・カーン」のリングネームを使いだしたのもこの頃からだそうです。
モンゴル人というキャラや体の大きさもあり、ジャック・ブリスコやダスティ・ローデスなど、当時のアメリカのトップレスラーとも対戦し、着実にメインイベンターへの階段を昇っていきます。
第十五章は、フロリダで結婚した白人女性の事や「師」と呼んでいるカール・ゴッチとの事が書かれています。
第十六章では、ジョージア、トライステート地区と転戦。体も130キロ近くになり、「モンゴリアン・チョップ」を武器にアメリカ永住を考えていたようです。
WWFヘ
第十七章、そして、ついにWWFからのオファーが来ます。マネージャーは、力道山と激闘を繰り広げたフレッド・ブラッシーです。
いいなぁ。まさにアメリカンドリームですね!
第十八章、この章では、当時WWFに修行に来ていた谷津嘉章にも触れていますね。
キラーカーン本人は、80年頃からボブ・バックランドのWWFヘビー級やべドロ・モラレスのインターコンチネンタルにも挑戦し、WWFでもメインイベントを任されるようになっていきます。
二度目の凱旋
第十九章、81年には、3年振りに新日本プロレスに凱旋していますね。
アメリカでメインを張っていただけあって、試合順などは良い扱いを受けていたようです。
ただし、ギャラに関しては、あまり良い扱いではなかったようです。
この章では、他に藤原喜明との「不穏試合」のいきさつについても語られています。
アンドレとの一連の抗争
第二十章では、名実ともにアメリカでトップレスラーとなったアンドレとの抗争の経緯が語られています。
レスラーである以上、対戦相手に欠場させるような大ケガを負わせるのはご法度ですが、相手がアンドレだったからこそ、逆にそれをチャンスに変えてもらえたのでしょうね。
そう考えると「運」が良かったとも言えますし、その運を掴むだけの実力をキラー・カーンが自身が身に着けていたとも言えますね。
第二十一章、翌81年になっても、対アンドレの需要は高く、日本や北米を中心に試合が組まれていたようです。
ただし、メキシコでは、ある横槍が入って実現しなかったようですね。
革命維新軍
第二十二章、83年からは、長州、マサ斉藤らと共に革命軍(後の維新軍)を決起し、日本でもヒールとしての立場になります。
維新軍発足の理由は、以外な理由でした(゜.゜)
第二十三章では、カルガリー時代の事が書かれていますね。
次いで、ダラス地区のリングにも上がっています。ダラスでは、グレート・カブキとも再会していますね。
そして、この時期に今後のキラーカーンの運命を左右する電話がかかってきます。
ジャパンプロレスに参加し、全日本プロレスのリングへ
第二十四章、紆余曲折がありながらも、念願だった馬場、全日本のリングに上がる事になります。
全日本時代は、馬場さんともシングルで戦っているのですね。
また、メキシコでのアンドレ戦を中止に追い込んだ人物とも、全日本で再会します。
人から聞いた話を鵜呑みにして、この話は、少しひどいなぁ。もし誤解だったら、どうするんだろう(^_^;)
第二十五章では、85年にハンセンやブロディとオーストラリアに遠征に行った事などが書かれていますね。
またタイガージェットシンとのサウジアラビアでの試合についても書かれています。
第二十六章、この頃のキラーカーンは、もう全日本には飽きてきていますね。
また全日本プロレスも日本人選手が増え過ぎて飽和状態になってきます。
冒頭で触れたロード・ウォリアーズとの試合についても書かれていますね。
なるほどなぁ、キラー・カーンは、ジャパン勢を裏切って、カルガリー・ハリケーンズと共闘していくストーリーだったのですね。
因縁の長州ともシングルで戦っていますが、納得のいく試合ではなかったようです。
ジャパンプロレス解散
第二十七章、理想をかかげて発足したジャパンプロレスも社長の長州が新日に復帰したりして分断していきます。
一方、キラー・カーンのほうは、WWFに復帰し、ハルク・ホーガンとの抗争が組まれていきます。
引退試合無き、引退
第二十八章、WWFでの仕事は順調に進んで行きますが、長州の新日復帰の経緯を知ったキラーカーンは、急激にプロレスへの情熱を失っていきます。
結局、WWFのボスのマクマホンjrや抗争相手のハルク・ホーガンからも引き留められますが、引退を決意してしまいます。
それにしても、30年も経っているのに、長州への怒りの感情は、凄まじいですね。
あとがき
あとがきでは、引退後の居酒屋経営の事や天龍からSWSに誘われた事などが書かれています。
【蒙古の怪人、キラー・カーン自伝の感想】
キラー・カーン自伝を読んでみた感想は、う~ん、やはり何でそこまで長州を恨んでいるのかが最大の疑問ですよね。
理由は、色々と書かれていますが、プロレスラーとしては、ギャラで移籍するのはアメリカも日本も同じでしょうしね。
しかも、キラー・カーンもジャパンプロレスだけに所属していただけでなく、自分はアメリカでも仕事をしながらですからね。WWFでもしっかり稼いでいた訳ですし…、何か書けない理由が他にもある気がしますね。
とはいえ、全28章、255ページで楽しめました。私の知りたかった海外での話もたっぷりでした。
総合評価は、☆3.5といったところでしょうか。
一度は「居酒屋 カンちゃん」に行ってみたいですね(^-^)