ブルーザー・ブロディ 30年目の帰還 斎藤文彦著 書評レビュー
ブルーザー・ブロディが亡くなってから、もう30年以上が経つのですね。
ブロディを初めて見たのは、小学生の頃にテレビで見ていた全日本プロレスです。
当時、新日本プロレスの外人エースだったスタン・ハンセンが、突然全日本プロレスの世界最強タッグリーグ戦に乱入してきました。
で、場外で相手チームのファンクスのテリーにラリアート!
テリーが場外で紙テープにぐちゃぐちゃに絡まって、もがいていたのを覚えています。
ただ全日本時代のブロディは、強いし、外見も迫力があるのですが、なんか地味で、やはりハンセンのパートナーのイメージが強かったですね。
最強の超獣コンビと、当時売り出し中のロードウォリアーズ戦なんかは見たかった気がするのですが、実現せず…。
その後、電撃的に新日本プロレスへ移籍。
この新日本時代のブロディもあまり印象がないんですよね。
私自身が中学生になって、あまりプロレスを見なくなったという事もありますが、日本人で対抗できるのが猪木くらいで、その猪木とも両者リングアウトとか反則決着ばかりで、名勝負と言えるような試合はなかったように記憶しています。
逆に、マードックとか、ケンドー・ナガサキ(ランボー・サクラダ)が互角に戦っていて、すごいなぁと思っていました。マードックって案外強いんだなと。
せっかく新日本に来たのだから、ホーガン戦をやらないのかなぁと思っているうちに、試合をボイコットしたとかで、新日本とは契約解除。
そして、気付いたら全日本プロレスに復帰していましたね。
確か鶴田からインターナショナルヘビー級のベルトを獲った後に、ファンと抱き合っていたのが印象的でした。
ブロディも変わったなぁ…と。
これから、全日本でいよいよハンセン戦かと思っていた矢先、例の事件でブロディが亡くなったと聞きました。
結局、ブロディって、猪木や馬場、鶴田、天龍といった日本人とは戦いましたが、ホーガンとかハンセン、ロードウォリアーズといった同じ大型の外国人レスラーとの戦いは皆無だったのかな。
大型外国人との対決があれば、盛り上がったのになぁと思います。
ハンセンは、アンドレともやったし、ホーガンやベイダーともやりましたしね。その差が印象の深さの違いなのでしょうか。
それから30年、表紙にひかれて、「ブルーザー・ブロディ 30年目の帰還」を読んでみました。
【目次】
ブルーザー・ブロディ 30年目の帰還 書評
【プロローグ】
プロローグでは、ブロディが亡くなった当時の事がドキュメント風に紹介されています。
当時は、まだインターネットも普及していないですし、情報が錯そうしたでしょうね。
一番困ったのは、馬場さんだったかもしれません。色々と今後のストーリーを考えていたでしょうから。
【第一章 ブルーザー・ブロディの誕生とその栄光】
第一章は、ブロディの生い立ちからの新日本プロレスへの移籍前までの略歴が紹介されています。
生まれたのは1946年ですから、第二次世界大戦の終戦の翌年ですね。
このページにブロディのハイスクール時代の写真が載っていますが、ひげも無く、髪も七三分けなんですが、老けてるなぁ…パッと見、40代のビジネスマンといった感じです(*_*)
大学時代のフットボール選手の頃はかなりの問題児だったようですね。このあたりはハンセンの自伝にも書かれていましたね。
この項では、ウエストテキサス大学出身のドリーやテリー、ローデスなどのプロフィールなども紹介されています。
昔、プロレス・スーパースター列伝で、ブロディは大学卒業後にスポーツ新聞記者になったと書いてありましたが、あながち嘘ではありませんから、梶原一騎は脚色はしていたけど、ちゃんと調べてはいたんですね。
プロレスデビュー後に、大学時代のチームメイトだったハンセンと再会、タッグチームを結成。
そして、WWWF(現WWE)でブルーノ・サンマルチノと抗争。
プロレス・スーパースター列伝では、ハンセンの敵討ちとして、ニューヨークに出向いたとありますが、ここは脚色ですね(^_^.)
この後、後に結婚するバーバラさんとオーストラリアで出会います。
そして、全日本プロレス参戦へと続きます。
馬場さんは、体の大きなレスラーが好きだったみたいですから、ジャンボ鶴田のライバルとして期待していたのでしょうね。
【第二章 ブロディという人物】
第二章は、著者が行った過去のブロディのインタビューやレポートが掲載されています。
読んでいて感じたのは、ブロディは、どんな相手に対しても、一貫して必ず主導権を取るということでしょうか?
インタビューでもそうですし。プロモーターに対しても、自分の主義は曲げないし、実際の試合でもそう。
もちろん、プロとしては絶対に欠かせない要素なのでしょうが、そこらへんがもう少し柔軟であったなら、違う人生を歩んでいたのではと、ついつい思ってしまいますよね。
どの言葉からも、知性の高さとプライドが感じられます。
ただ最後のインタビューの時は、ブロディも出戻りでしたから、多少は人間が丸くなり出したのかなとも思いますね。
実際、鶴田にピンフォールま負けを喫していますし、新日本時代は一度も負け役はやっていないですからね。
プエルトリコでもそうであれば、とまた考えてしまいました(^_^.)
【第三章 ブロディ事件の衝撃】
第三章では、ブロディが亡くなった事件に関して、ハンセンやブッチャー、ジミー・スヌーカ、そして奥さんであるバーバラさんのインタビューが載っています。
以外だったのは、ブッチャーが想像以上に信心深い人間であったこと、そしてブロディの趣味が「株」だったことですかね。
【第四章 ブロディ事件の真相】
第四章は、ブロディ事件のあった当日、会場にいたレスラー達(トニーアトラスやTNT、ダッチ・マンテル)の証言から、事件の真相を探っていきます。
ブロディとゴンザレスの付き合いはWWWF時代から始まっていたようですから、ある意味長い付き合いなんですよね。
当日も試合場まで、ゴンザレスに送ってもらう予定だったようですし、ところがトニー・アトラスの証言によると、アトラス達と行ってしまったようですから、意外とそれが原因なんてことはないですよねぇ。
やはり現場となったドレッシングルームでの証言は、生々しいです。
でも当日の試合は、ゴンザレスも出場して、そのまま行われているんですよね。
日本では、ちょっと信じられない話ですよね(^_^.)
翌日の試合は、アメリカのレスラー達がボイコットして、中止となったようですが、この数日間はかなり慌ただしい動きがあったようです。
ここらあたりの話は、当日会場にいたケンドー・ナガサキの自伝でも詳しく紹介されています。
しかし、後々行われた裁判では、正当防衛が認められてしまう訳ですから、遺族や友人達にとっては、本当につらい結末ですよね。
【第五章 ブルーザー・ブロディが遺したもの】
最終章では、ブロディを扱った2冊の伝記が紹介されています。
1冊目は、奥さんのバーバラさんの回想を基に書かれた書籍で日本でも翻訳版が出版されていますね。私も読みました。
もう1冊は、エマーソン・ミューレン氏の著作「ブルーザー・ブロディ」で、こちらは取材を基にしたノンフィクションのようです。ブロディの前妻の証言も多くあるようですから読んでみたいなぁ。
もう翻訳版はでないのでしょうね(^_^.)
中盤は、ブロディが亡くなって以降の激動のプロレス史が語られています。
そして最後は、インディペンデントをキーワードとしたブロディの言葉が掲載されています。
この最後の言葉を読むと、短い人生だったかもしれないけれど、ブロディは自分の望む生き方を貫いたんだなと改めて思いましたね。
ブルーザー・ブロディ 30年目の帰還の感想
ある程度、自分でも予想していましたが、やはり読みだしたら、あっという間でしたね。
読み応えがあったのは、第二章のインタビューと第四章ですかね。
ただ、ゴンザレス自身の証言はないので、本当の意味での真相は、…。
エピローグでは、現在のバーバラさんが紹介されていますが、一人息子のジェフリーさんも37歳という事で、ブロディの最大の懸念は晴れたようで、良かったです。
ブロディ以降の米国のレスラーは、皆マッチョマンになってしまいましたから、本当のレスラーらしい体をした、最後のレスラーといったところでしょうか。
総合評価は、☆☆☆3とさせて頂きます。
今回も、最後までお読み頂きありがとうございました。
ランキングに登録してみました。応援して頂けると、感激です(#^.^#)
真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男 田崎健太著 書評レビュー
佐山サトルというと、私達昭和世代の人間から見たら、やはり初代タイガーマスクという事になりますね。
私が初代タイガーマスクを初めて見たのは、小学生の低学年の頃です。
毎週欠かさずに見ていた、金曜8時のワールドプロレス。
対戦相手は、ダイナマイト・キッド。
試合前に、やたらとキッドがイラついていたのを覚えています。
最初の試合のタイガーのマスクは、今考えると、ホントにしょぼかったですよね。
ただ、その軽快なフットワークやキックは、今までに見た事のない動きでした。
あと、サマーソルトキックでしたか?相手をコーナーに投げつけて、バク宙しながらの蹴り。
そして、最後のジャーマンスープレックスの時のブリッジは、本当に橋(ブリッジ)をかけたようで、今も鮮明に覚えています。
それから、日本全国でタイガーマスクブームが起こりました。
梶原一騎の「プロレス・スーパスター列伝」とも並行して、私も夢中でした。
ブラック・タイガーとの二匹の虎の戦いは、燃えたなぁ。
小林邦明との抗争で、タイガーがマスクをはぎ取られそうになった時は興奮しました。
客席から、金と赤のハーフのマスクが偶然投げ込まれたりして、まるでドラマですよね。
2年ほどで突然引退し、総合格闘技の先駆者としてシューティングを創始。
旧UWFのリングでは、スーパータイガーとして前田日明との遺恨試合もありました。
その後、表舞台には立たなくなりましたが、シューティングのデモンストレーションで「ジャーマン」をリクエストされている記事を見て、すごく太ったなぁと思ったのを覚えています。
ヒクソン・グレイシーを初めて招聘したのも、佐山が開催した、「バーリ・トゥード・ジャパン・オープン」でしたね。
その後、どういう経緯か、猪木と一緒に小川直也のコーチをしたり、プロレスのリングにタイガー・キングとして上がったり、新たに「掣圏道」を創始したり、どこへ向かっているのだろうと思っていました。
確か、アルティメットボクシングとか、プロレス団体も起ち上げたんじゃなかったかな?
近年は、体調を崩していたような記憶がありますが、どうなのでしょう?
そういった折、真説・長州力の著者である田崎健太氏が、佐山サトルの本も書いていると聞きました。
前著でも徹底した取材で、新たな長州像を知ることができたので、今回の書籍も期待して読んでみることにしました。
【目次】
真説・佐山サトル 書評
【佐山サトルの生い立ち】
第一章では、「家庭が複雑だった」その理由について書かれています。やはり徹底的に取材をされていますね。
私は知らない事ばかりでした。まぁマスクマンですから、誰もが知っていては困りますが(^_^.)
個人的には、佐山の父から母への手紙が印象に残りました。
「隣近所とは余り深く付き合わず、礼儀正しくすること」
小学生の頃は、あまり目立った少年ではなかったようですね。
第二章は、中高時代から、新日本プロレスに入門するまでが書かれています。
中学時代に仮面貴族のファンだったのは驚いたなぁ…昔、よく比較されていましたものね。
不良ではないが、やはり強かったみたいですね。まぁ、あの運動神経でそれなりに鍛えていたら、そりゃ強いよね。
当時の様々なエピソードが記されています。
高校を中退しての一時は、かなりやばい存在だったようですね(^_^.)
プロレス入りに関しては、父親からかなり反対されていたようです。
【新日本プロレス入門】
第三章は、プロレス入りの経緯についてが書かれています。
高校中退後、散々紆余曲折しながらも、ようやく新日本プロレスの入団テストに漕ぎつけたようです。
この項では、直近の先輩である藤原喜明や小林邦明による当時の佐山の逸話が多く紹介されています。
また、当時のバーリ・トゥードのチャンピオンだったイワン・ゴメスについても、多くのページが割かれています。
更に、後の佐山のデビュー戦の相手である北沢幹之さんに関しても、詳しく紹介されていますね。この項は、プロレスファンにとっては、垂涎ものです。
第四章は、デビュー戦の後から、最初の海外遠征までが書かれています。
メルセデスベンツの自転車の話などもありますが、やはりこの頃から、新しい格闘技への傾向が始まっていますね。
目白ジムに出稽古に行ったり、その流れで「格闘技大戦争」に出場したり、昔このあたりの話は「プロレススーパースター列伝」でやってましたねぇ。
そして、前田日明と出会ったのも、この頃のようです。
【サミー・リー海外遠征へ】
第五章は、佐山サトルの海外遠征時代が紹介されています。
サミー・リーは、イギリス時代の佐山のリングネームですが、初の海外遠征は、まずはメキシコへと旅立ちます。
実際は、猪木と約束した格闘技の選手になりたかったようですから、内心は複雑だったのでしょうね。
この項では、メキシコで一世を風靡した「パク・チュー」こと木村健吾についても、多くページを割かれています。
木村は、メキシコではトップヒールだったんですよね。髪切りマッチをやった写真を、昔プロレスアルバムで見た事があります。
佐山のほうは、メキシコからフロリダに移り、藤原喜明と共に、神様 カール・ゴッチの元でトレーニングに励みます。
その後、再びメキシコへ戻り、今度は小林邦明と共にグラン浜田の家を間借りして生活していたそうです。
そして、いよいよ、サミー・リーとしてイギリスに乗り込みます。
サミー・リー時代の動画を見て頂いたら分かると思いますが、見ての通り、もうほぼタイガーマスクですよね。
ローリング・ソバットもサマーソルト・キックも使っています。
映像の途中で出てくるドロップキックなんかは、相手の頭上を越えていますものね。
コンディションもいいし、そりゃあスターになりますよ。
この項では、他にウェイン・ブリッジを中心に当時の英国マットの事が語られています。
そして後のライバル「暗闇の虎」ともこの頃に出会っているようです。
【タイガーマスク誕生】
第六章は、いよいよ日本マットでのタイガーマスク時代の話ですね。
タイガーマスク誕生の秘話に関しては、幾多の書籍でも公開されていますので省きますが、本人にとっては、本意ではなかったようですね。
やはり格闘技がやりたいという気持ちのほうが強かったようです。
それが、大スターになってしまうのですから、皮肉なものですよね。
その当時の心の葛藤が語られています。
他にこの項では、付き人だった山崎一夫についてや、梶原一騎の「猪木監禁事件」などについても語られています。
また「虎ハンター」として一躍有名になった小林邦明の当時の心情についても語られていますね。
虎ハンターも、タイガーファンからの様々な嫌がらせには、手を焼いていたようですね(^_^.)
【タイガーマスクの結婚と新日本プロレスでのクーデター】
順風満帆に見えていたタイガーマスクですが、水面下では、婚約を公開できないなど、会社サイドとの軋轢が生じてきます。
そして、時を同じくして、例のアントンハイセルの件ですよね。
新日本プロレスの売り上げ自体は、タイガーマスクブームや藤波と長州の抗争などにより伸びていますが、それが選手には還元されずにアントンハイセルのほうに…。
また、新日本内部の人間も、会社を通さずにギャラを自分の懐に入れてしまうような人間がチラホラ。
そしてこの時期に、後々タイガーのマネージャーとなる悪名高きS氏とも出会っています。S氏は、実名で載っていますが、いいのかな(^_^.)
それにしても、猪木は日本プロレス時代に、自分がクーデターの首謀者とされて、日本プロレスを追い出された訳ですが、後々自分の会社でクーデターを起こされるとは思わなかったでしょうね。
リング外で様々な駆け引きが行われる中、タイガーは引退を決意していきます。
【タイガーマスクの電撃引退】
第八章では、引退の経緯と新日本プロレスでのクーデターの実状が紹介されています。
結果的に、一連のクーデターの主犯格が佐山という事になってしまったようですね…。
一連の騒動の中、タイガーは、猪木に直接会い、事の真相を伝えたそうです。また新間寿の元へも出向いています。
他にダイナマイトキッドとのノーピープルマッチや「欽どこ」出演の経緯についても書かれていますね。
そして、水面下では、第三の団体への立ち上げが進んでいきます。
【スーパー・タイガーとして、旧UWFに参戦】
第九章では、1984年に発足した旧UWFの発足の経緯とタイガーマスク参戦の経緯が書かれています。
う~ん、裏側では、こうなっていたんですねぇ。この項だけでも一冊本が書けてしまうような。
内容に関しては、詳しくは書けませんが、再会もあり、出会いもあり、別れもありといったところでしょうか。
中でも、北沢さんとの再会というのは大きかったのでしょうね。
北沢さんと再会しなければ、後のストーリーはあり得ない訳ですし、そして藤原、前田、山崎とのそれぞれとの再会も、このメンバーが揃わなければ、後のK-1や総合格闘技といったブームも無い訳ですからね。
ただ、良い事ばかりでないのも人生ですね。
【スーパータイガージムの再設と前田日明との不穏試合】
旧UWFへの参戦を機に、佐山はS氏とは縁を切り、スーパータイガージムを開設し、ルール作りも含めシューティングの理想へと邁進していきます。
結果としては、これが他の選手や一部の営業社員と軋轢を生んでいく訳ですよね。
その流れが、前田日明との不穏試合へとつながっていきます。
本項では、この試合に関しての双方の言い分がこと細かく記されています。
そして、この試合と時を同じくして、UWF自体も例のスボンサー問題なども重なり、団体崩壊の道へと進んで行くことになります。
【シューティングの初期インストラクター達】
第十一章の題字は、「佐山サトルの影」ですが、中村頼永、北原辰巳、平直行ら、当時のシューティングの初期インストラクター達を中心に話が進んでいきます。
同じインストラクターでも、ずいぶんと扱いが違っていたようです。
結果的には、全員が別々の道に進んで行く事になる訳ですが…。
また当時話題となった「ケーフェイ」についても、かなり詳細な記述が掲載されています(ー_ー)!!
【初代シューター達の苦闘】
第十二章は、アマチュアスポーツとしてスタートした初期のシューティングの大会に出場していた選手達の話です。
ほぼ同時期に第二次UWFも発足していますが、似ているようで中身は全く違う訳ですよね。
そして世間の話題となっていたのは、UWFのほうです。
実際、私もUWF信者でしたからね(^_^;)
この頃のシューティングは、まだ競技として確立しておらず、ルールに関しても、技術的な部分に関しても、日々試行錯誤している段階。
また経営難からジムも度々移転し、後に選手達へのファイトマネーもストップしていったようです。
それでも選手達は、後に伝説となった合宿に参加したり、ひたむきに頑張っていたようですね。
そして時代は流れ、1993年、後にブームとなったK−1がスタートします。
同年9月、長く鎖国をしていた修斗も第一回のオープントーナメントを開催。
さらに11月には、後々シューティングにも大きな影響を与えるUFCが開催されています。
【バーリトゥードの衝撃】
93年から開催されたUFCの影響は大きく、シューティングのルールもUFCに近い形に変っていきます。
ファイトマネーも出ずに、これまでのスタイルで戦ってきた選手達からは、不満が生じてきます。
特にグランドでの頭部への打撃ですよね。基本的に日本の格闘技では禁止でしたから。
これを認めてしまうと、戦い方もずいぶんと変わってしまいます。
とはいえ、客観的に見ても、UFCに一番近いスタイルで戦っていたのは、真剣勝負で総合格闘技をやっていたシューティングでしたからね。
UFCがあのルールでやり始めた以上、シューティングが自分たちのルールにのみ、こだわった戦い方を続けていたら、その後、修斗が脚光を浴びる事は無かったと思います。
一方、佐山のほうは、借金の金額がとてつもない額まで膨らんでいきます。
そして、この年、あのヒクソングレイシーが修斗主催の「バーリトゥード・ジャパン・オープン94」に出場します。
この項では、ヒクソン参戦の経緯についても詳細が述べられています。
【ヒクソングレイシーと中井祐樹】
私も、バーリトゥード94ジャパンオープンのビデオは、いまだに保有していますが、ヒクソンの試合は、どれもあっという間でしたね。
体格差のある相手もいましたが、本当に赤子の手をひねるようなものでした。
また、修斗のチャンピオンだった川口があっけなく負けてしまった事にも驚きました。
この項では、翌95年のジャパンオープンの決勝でヒクソンと戦った中井祐樹を中心に話が進んでいきます。
中井は、大学時代に高専柔道を学んでいたので、寝技が強いのだと思っていたのですが、それでもエンセン井上との出会いは大きかったみたいですね。
結果としては、名誉と引き換えに右目の視力を失う事になる訳ですが、読んでいて痛々しかったですね(T_T)
あと、朝日昇についても、この項では多くが語られています。
【修斗との訣別】
この項では、96年のバーリトゥード・ジャパンの開催に向けてと、題字通り、なぜ佐山サトルが自分で作ったシューティングから抜ける事になったのかが語られています。
取材を受けた方々は、一番聞かれたくなかった事でしょうね。
それでも答えて下さったのでしょうね。
この項に関しては、ぜひ本著を読んで頂きたいと思います。
【エピローグ 孤高の虎】
最終章になる訳ですが、題字のページに現在の佐山サトルが顔写真が載っています。
この写真だけでも、タイガーマスク以降の佐山サトルがどう生きてきたのかが分かる気がしますね。
内容的には、修斗を離れて以降の事が書かれています。
UFOや掣圏道の事が書かれて、はい終わりと思ったら、最後の最後で一番驚く事が書いてありました。
新説・佐山サトルの感想
いやぁ、さすがに500ページ強の大作です。読み応えがありました。
前半は、読んでいて懐かしかったですね。タイガーファンに戻って読んでいました。
タイガーマスク以降は、逆に少し重かったですね(^_^;)
なかなか恵まれないんだもん。小説ではなく、実話ですからね。
それでも、本気で夢に向かって生きた男の生き様を感じましたよね。
読んでいて、もう少し柔軟に、お金を稼ぐ生き方をしても良かったのかなぁとも思いました。
実際、佐山が抜けた後のシューティングは、佐藤ルミナ、宇野薫、桜井マッハ速人といったスター選手が生まれましたからね。
そういえば、今の修斗はどうなっているんだろう?
K−1は、軽量級を中心に頑張っているようですが。
総合評価としては、星☆☆☆☆4つとさせて頂きます。
タイガーマスクの全体像を知りたい方には、特におすすめです。
希望としては、もう少し海外遠征時代の話が聞きたかったかな。
今回も最後までお読み頂きありがとうございました。
映像で、実際のタイガーマスクの映像を見たい方は、こちらもおすすめです↓
ランキングに登録してみました。応援して頂けると、感激です(#^.^#)