プロレスの本棚

40年間、ため込んできたプロレスの本棚の備忘録です。

同級生 魂のプロレス青春録 柴田勝頼・後藤洋央紀、書評。

柴田勝頼

1979年11月17日 三重県桑名市出身

1998年 新日本プロレス入団。

新・闘魂三銃士と呼ばれる。

2005年 新日本プロレスを退団。

以降、フリーとして総合格闘技などの試合を行う。

2012年9月 フリーとして新日本プロレスに参戦。

 

後藤洋央紀

1979年6月25日 三重県桑名市出身

1998年 国士館大学入学、レスリング部で活躍する。

2002年 新日本プロレス入団。

2003年7月 プロレスデビュー。

2008年8月 G1優勝。

 

お二人共、高校時代からアマレスを始めた同級生だそうです。

本著より抜粋

 

 

 

柴田勝頼後藤洋央紀の印象】

柴田選手は、棚橋や中邑と共に新闘魂三銃士と呼ばれていましたよね。

 

ただ本人は気に入らなかったみたいですね。

 

それが原因かどうかは知りませんが、その後新日本プロレスを辞めて、総合の試合に出場していたのを覚えています。

 

総合用にすごく体を絞り込んでいましたよね。

 

ただ勝率が良かったかというと、そうでもなくて結構負けていましたね。

 

桜庭とも戦っていましたが、やっぱり負けて、試合後に桜庭が船木と戦いたいとマイクアピールしていたのを覚えています。

 

ただ、新日本に復帰してからの試合は、私もよく見ていて、新日本のストロングスタイルというのでしょうか、凄みのある試合を行っていました。

 

私、結構ファンです(^-^)

 

後藤のほうは、全然知らなくて、ちょうど柴田が新日本に復帰した頃から、私も再びプロレスを見るようになったのですが、ポジション的には棚橋や中邑より少し下で、でも内藤よりは、少し上の扱いなのかなと思って見ていましたね。

 

牛殺しとか昇天とかの大技もあるのに、なぜかトップには立てない存在というのでしょうか。

 

しかも、そのうちオカダが出てきて、内藤哲也もヒールに転向して成功しているのに、後藤は…、なぜでしょうね。

 

そんな後藤と柴田の共著が出版されていたので、あまり年下の自伝は読まないのですが、今回は読んでみました。

 

 

【同級生 魂のプロレス青春録、書評】

第一章 生い立ち

柴田のほうは、ご存知新日本でレフェリーをやっていた元プロレスラー柴田勝久の息子ですね。

 

その影響からか、幼稚園に上がる頃には、プロレスラーになるのかなと意識し始めていたようです。

 

後藤のほうは、電気工事会社の社長の息子なんですね。活発な少年だったようです。ただトラブルにも巻き込まれやすい性質でもあったようです。

 

第二章 中学時代

中学生になると、後藤はソフトテニス部、柴田はバスケットボール部に入部します。二人共、部活動には真剣に取り組んでいたようですね。

 

ただ勉強のほうは、こちらも二人共、不得意だったようです。というか、後藤は全くしていない(^_^.)

 

後藤のほうは、中学時代からプロレスに興味を持ちだしたようです。長州力のファンだったみたいですね。

  

wrestling-book.hateblo.jp

 

体も鍛えだして、将来はプロレスラーになると決め、高校もレスリング部のある桑名工業高校へ進学します。

 

う~ん、私も鍛えたりしていたなぁ…後藤は、夢をかなえたんですね。

 

ここで生涯の恩師である元日体大レスリング部の橋爪幸彦先生と出会う事になります。

 

第三章 高校時代

柴田のほうも、桑名工業高校に進学します。意外だったのは、柴田のほうは、後藤のようにプロレスラーになりたくて、レスリング部のある高校を選んで入学した訳ではなく、たまたまだったんですね(@_@;)

 

それが偶然レスリング部のある高校に入学して、生涯の恩師と出会い、また後藤とも出会う訳ですから、運命なんですかねぇ。

 

 高校時代は、練習自体は厳しかったようですが、昼休みは食事をしながら、プロレスのビデオを見たり、のびのびと過ごせたようです。

 

親日永田裕志ケンドー・カシンが道場に来た事もあったようです。しかも後藤は、永田を爪でケガさせてしまいます(^_^.)おいおい。

 

 この時に新日本プロレスを生観戦した事で、柴田のほうもプロレスラーになる決心をしています。

 

三年生になると、柴田がキャプテン、後藤が副キャプテンになってますね。柴田は、後に新日本で出会う中邑真輔ともアマレスの試合で戦っているようです。

 

そして、卒業が近付き、二人は別々の道へと旅立っていきます。

 

後藤は国士舘大学、そして柴田は新日本プロレスの入団テストを受け、一足先にプロレスの世界へ。

 

入門テストでは、柴田は棚橋とも出会っていますね。

 

第四章 それぞれの道

柴田は高校卒業と同時に新日本プロレスに入門。同期は井上亘選手と新島選手、やはり相当厳しい練習だったようで、腰を痛めてデビューまでは一年以上かかっています。

 

後藤のほうは、国士館大学へ、こちらも厳しい上下関係の中で精神的にも鍛えられていきます。

 

1999年10月10日、柴田のほうは同期の井上亘戦でデビュー戦ですね。とうとう本物のプロレスラーになってしまいました。ちなみに棚橋も同日デビューです。

 

当時は棚橋とも仲が良かったようです。

 

そして、大学四年の12月、後藤のほうも新日本の入団テストを受けに行きます。結果は一発合格、後藤のほうもすごいですね。

 

後藤が新日本に入門したのは2002年の4月ですね。同期は田口隆裕、そして中邑真輔らがいます。

 

 柴田は、後藤には優しかったみたいですが、他の後輩たちにとっては、怖い先輩だったみたいですよ(^_^.)分かる気がする。

 

そして、後藤はまさかの入門一ヶ月で、クビ宣告!肩を脱臼してしまったそうです。

 

第五章 再会

 後藤がクビになった事を知った柴田は、残留させるように会社に猛烈に抗議しますが、認めてもらえません。しかし、ケガが治った後に再度入門テストを受ける事は認めてもらいます。

 

 ここから柴田は、後藤を自宅に住まわせ、治療に専念させます。食費などの一切も面倒をみたそうです。

 

 ある程度、肩が良くなった後藤は、桑名に戻り、母校の桑名工業高校などで、再度入門テストを受けるための練習を再開します。

 

 11月に再度、入門テストを受け、結果はぶっちぎりの合格!良かったですね!(^^)!

 

 一方、柴田のほうは、藤田やカシンといった先輩たちがPRIDEなどのリングに上がるのを見て、少しづつ総合格闘技のほうに興味が湧いてきたようです。

 

 実際、この頃から打撃の練習も始めているようですね。

 

 後藤のほうも、復帰はしたものの、やはり同期だった中邑が、さーっとトップのほうに行ってしまったので、相当焦りを感じていたようです。中邑はデビューして一年位でIWGPのチャンピオンになってしまいましたからね(^_^.)

 

 2003年からは、柴田は魔界倶楽部に在籍しながら、K-1ルールの試合も行っていきます。2004年には異種格闘技ルールで武蔵とも戦っていますね。

 

 そして2005年の1月をもって、柴田は新日本プロレスを退団していきます。

 

 

第六章 迷走

 新日本を辞めた柴田は、上井氏のビッグマウスラウドに所属しますが、なかなか試合をする機会に恵まれません。

 

 ただ、この当時に元パンクラス船木誠勝と出会い、一緒にトレーニングをする機会に恵まれます。

 

 書籍を読むと、退団した最初の頃は、リキプロに上がったり、NOAHに上がったり、結構プロレスの試合をしているんですね。

 

  結局、ビックマウスラウドは、迷走した挙句、空中分解していきます。また上井氏との関係も終止符が打たれていきます。

 

第七章 荒武者誕生

 後藤のほうは、2006年からアメリカのTNAやメキシコに海外遠征に出ていますね。このメキシコ遠征時代に、オカダと出会っているようです。

 

 メキシコの風土は、後藤に合っていたようですね。髪とひげを伸ばし、袴とレガースを付け、現在の後藤のキャラクターを完成させていきます。

 

 一年後に、ヘビー級の体になって凱旋帰国。残念ながら、袴のコスチュームは長州の一言で取りやめになったみたいですね(^_^.)

 

 それでも天山戦を制し、凱旋帰国のインパクトを残します。なるほど、天山を葬った事で“牛殺し”命名されたんですね。

 

 これを機に、当時IWGPのチャンピオンだった棚橋弘至に初挑戦。翌年の東京ドームでは、グレート・ムタとも対戦しています。

 

 

 第八章 転機

 上井氏のもとを離れた柴田は、本格的に総合格闘技のリングに上がっていきます。初舞台は、2007年3月のHERO'S名古屋大会、対戦相手は元リングスの山本宜久です。

 

 結果は開始9秒でのKO勝ち!

 

 試合に恵まれていませんでしたからね。嬉しかっただろうなぁ(^-^)

 

 しかし、その後は勝利に恵まれず、9月の桜庭和志戦でも敗れ、この試合をきっかけに「船木VS桜庭」戦が実現します。

 

 船木は破れますが、これを機に柴田は、桜庭のもとでも練習するようになります。新日本に復帰した時のパートナーが桜庭だったのは、こういった経緯があったからなんですね。

 

 その後も、総合の試合を続けますが、なかなか勝利に恵まれす、ジレンマを感じていた柴田の名がプロレス界のほうから、クローズアップされます。

 

 その理由は、2008年のG1で後藤が初優勝し、勝利者インタビューで、柴田の名を挙げたからです。

 

 この頃に、柴田と後藤は地元桑名で会い、一緒に練習しているみたいですね。そしてプロレス形式のスパーリングも行い、「いつか二人で、ドームのメインで試合をやろう!」と誓い合います。

 

 そして2009年、これまで行動を共にしてきた船木が全日本プロレスでプロレスラーとして復帰します。一つの別れですね。

 

 その後、柴田は桜庭のジムの所属となり、DREAM12で運命の相手とも言えるケンドー・カシンこと石澤常光に勝利します。

 

  柴田にとっては、高校時代、そして親日時代と、そのあまりの強さを実感していたカシンからの勝利は、とても大きいものだったそうです。

 

 柴田も後藤も一山超えたかに見えましたが、この後も二人共なかなかチャンスを活かしきれない日々が続きます。もうこの頃は、総合格闘技は人気に陰りが出てきていましたね。

 

 そんな折、柴田のほうは、大みそかにDREAMとIGFの合同興行に出場し、桜庭とのタッグで久しぶりにプロレスの試合を行います。

 

 ドロップキックの着地に失敗し、左手首を骨折してしまいますが、この試合を機にプロレスのオファーが来るようになってきます。

 

 一方、後藤のほうは、相変わらずチャンスが掴めず、オカダや内藤など後輩たちからの突き上げを感じていたようです。

 

第九章 青春

「元・新日本プロレス柴田勝頼です。喧嘩、売りに来ました!」この言葉は、私も覚えています。ちょうど、私も再びプロレスを見るようになっていた頃でした(^-^)

 

 桜庭とのコンビで、同期の井上亘選手や真壁とタッグで戦っていましたね。桜庭選手が真壁の事を「でかい!」と言っていたのを覚えていますね。

 

 そして年が明けての2013年から、いよいよ柴田と後藤との闘いが始まっていきます!

 

 何度かタッグマッチで当たった後、初シングルは5月3日の福岡国際センター。ゲストは高校時代の恩師である橋爪幸彦先生です!

 

 結果は両者KO!

 

 続く大阪大会では柴田が勝ち、三度目の秋田大会では、再び両者KO。

 

 その後、後藤が顎をケガして、一旦間が空きますが、4度目の対決は1月4日の東京ドーム。メインではないですが、ついに「後藤VS柴田」のシングルマッチがドームで実現しますね!

 

 結果は、今回は昇天・改で後藤のフォール勝ち。後藤にとっては、柴田戦の初勝利です。

 

 この後は、二人はタッグを組んだり、時にはシングルで戦ったりしながら、現在に至ります。

 

 

【同級生 魂のプロレス青春録を読んでみた感想】

 

 読み始めたら、結構一気に読んでしまいましたね。

 

 ただ、これまでこのブログで書いてきた人達と比べると、まだ現役だからでしょうか、少し物足りなかった気もします(^_^.)

 

 後藤の大学時代やメキシコ遠征時代の話は、もっと聞いてみたかったなぁ。でも柴田との共著なので、柴田のいない時代は、本にしにくいのかもしれませんね。

 

 柴田のフリー時代は、海外遠征の代わりだったのかもしれませんね。この時代に、人間として随分と成長されたように思います。

 

 柴田選手は、現在は欠場中らしいですね。私は1年半遅れで録画した親日を見ているので、原因となったオカダ戦もまだ見ていませんが、復帰してほしいなぁ。

 

 いずれにしても、お二人の更なる成長と成功を祈っています(^-^)

 

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【蒙古の怪人】キラー・カーン自伝 書評。

いやぁ、怖い顔ですねぇ。この記事を開いた方、いきなり閉じないで下さい(^_^;)

キラー・カーン プロフィール】

本名 小澤正志 

1947年3月6日 新潟県西蒲原郡吉田町出身

身長195センチ 体重140キロ

1963年 大相撲の春日野部屋に入門。

1971年 日本プロレスに入門。同年6月デビュー。

1973年 新日本プロレスに移籍。

1977年 メキシコへ海外遠征。

1979年 キラー・カーンとして北米を中心に活躍。

1984年 ジャパンプロレスに参加。

1987年 現役引退。

本著より抜粋

 

 

【私の中のキラー・カーン

キラー・カーンを始めて見たのは、これも金曜8時の新日本プロレスですね。

 

日本人としては、体がでかくて、顔が怖くて、弁髪のあるモンゴル人。今考えると、凄い設定ですね(^_^.)

 

あと「きぇーっ」と甲高い声を出してのモンゴリアン・チョップですね。

 

ただ正直言えば、印象に残っている試合は、ほとんどないですね。アンドレとのリーグ戦の決勝戦位かなぁ。

 

長州の維新軍にも入っていましたが、長州と浜さんのタッグは印象に残っていますし、マサさんの事もよく覚えているのですが、キラー・カーンの印象は薄いですね。

 

ジャパンプロレスに移籍し、全日本プロレスへ参戦

正直、全日本時代も印象がないんですよね~。

 

唯一、印象に残っているのは、相手がロード・ウォリアーズだったと思うんですが、キラー・カーンがGパンを履いていて(体がだぶついていた)、途中で長州が助けに来て、キラー・カーンをコーナーに押し込めて守っていたんですけど、仲間割れして、長州ともロードウォリアーズとも戦っていたのを覚えているんですが、どういう設定だったんですかね(?_?)

 

で気付いたら、引退していて、居酒屋やスナックをやっていました。

 

キラー・カーンの自伝を買った理由

ここまででしたら、単に印象の薄い、体の大きいレスラーなのですが、後年キラー・カーンアメリカで大成功していたと知りました。

 

私、海外で成功した日本人レスラーって大好きなんですよ。古くはジャイアント馬場さんとか、マサ斎藤さん、グレート・カブキとかね。

 

それで、当時のキラー・カーンの事を知りたいなぁと思っていたんですけど、あまり扱っている本も少なくて、と思っていたら自伝が発売されました(^-^)

 

最近は、プロレス本も中古で買う事が多いのですが、この本は発売当初に新刊で買いましたね。

 

さて内容は、どうだったでしょう?

 

 

【蒙古の怪人、キラー・カーン自伝 書評】

 

 まえがき

まえがきでは、ニューヨーク、マジソン·スクェア·ガーデンでのアンドレ・ザ・ジャイアントとの試合前の模様が述べられています。やはり、キラー・カーンのプロレス人生にとっては、この時代がクライマックスなのでしょうね。

 

生い立ち

第一章では、生い立ちが語られています。小さい頃に父親が家を出ていったようで、お母さんが苦労して三人兄弟を育てられたようですね。

 

大相撲時代

第二章は、大相撲の春日野部屋時代のエピソードですね。やはり、これだけ体が大きければ、スカウトが来ますよね。

 

相撲時代は、幕下と三段目あたりを行ったり来たりしていたようですね。また体重も思うように増えなかったようです。
 

日本プロレス時代

第三章では、相撲に限界を感し、日本プロレスに入門する頃のお話です。キラー・カーン藤波辰爾と同じく北沢幹之さんがきっかけだったのですね。またケンドー・ナガサキとは、ほぼ同期のようです。

 

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この時代の日本プロレスは、BI砲と言われた、ジャイアント馬場アントニオ猪木の二人が絶対的なエースだった頃ですね。

 

入門当初に、これまでで一番印象に残った外国人レスラーとして、モンゴリアン・ストンパーの名前を挙げています。モンゴルつながりといったところでしょうか。

 

第四章では、日本プロレス時代の練習内容とデビュー戦についてが詳しく紹介されています。相撲時代はなかなか体重が増えなかったようですが、プロレスを始めてから、筋肉が付き体重も増え始めたようです。

 

第五章は、同期の練習生や付き人をやっていた吉村道明さんについて書かれていますね。吉村さんには、可愛がってもらっていたようです。

 

 

 

第六章では、キラー・カーン日本プロレスに入門した年に起きた二つの事件について述べられています。

 

一つは、アントニオ猪木ジャイアント馬場に挑戦した事件ですね。当時、UNヘビー級の王者だった猪木がインターヘビー級の王者だった馬場さんに挑戦した件です。

 

現在では、日本人のエース同士の対決も珍しくも何ともありませんが、当時は考えられない事でした。負けたほうは、絶対的に商品価値が下がりますからね。

 

特にこの時代はテレビ局が、猪木と馬場にそれぞれに付いていましたからね。実際には実現するのは無理だったでしょうね。

 

近年で言えば、新日本とUインターの抗争で、初めに武藤に負けた高田の価値は、想像以上に落ち、後のUインターの崩壊につながっています。古くは力道山木村政彦、猪木とストロング小林なんかも同様の結果です。

 

日本プロレスのクーデター事件

もう一つの事件も主犯格は、アントニオ猪木ですね。やはり猪木は、昔から波乱が好きだなぁ(^_^;)

 

猪木が馬場や上田馬之助を巻き込んで、当時の日本プロレスの幹部達を追放して、現役選手達で健全な会社運営を図ろうとしましたが、結局幹部達にばれてしまい、猪木は日本プロレスを追放されてしまいます。

 

ここらあたりの話は、昔「プロレス・スーパースター列伝」で読んだなぁ。懐かしいです。

 

猪木の場合は、後に新日本プロレスで、山本小鉄らに、逆にクーデターを起こされてしまいますが、因果応報というやつですかね。

 

初の海外遠征は韓国へ

第七章では大木金太郎のブッキングにより、初めて海外へ遠征し、韓国で試合をしたことが述べられています。

 

また同時期に、日本プロレス入門後、ずっと付き人をしていた吉村道明さんが引退し、今後は坂口征二の付き人をする事になりました。坂口さんに付いた事が、キラー・カーンの今後の運命を決めていく事になります。

 

第八章では、日本プロレスが崩壊し、紆余曲折ありながら、坂口征二と共に新日本プロレスへと移籍していきます。

 

新日本プロレス時代

第九章では、当時の新日本の若手選手達が紹介されています。またこの時期にキラー・カーンの生みの親ともなるカール・ゴッチとも出会っているようですね。

 

また後の因縁の相手となる長州力も入門してきます。 

 

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第十章、新日本に移籍してからは、外国人選手との対戦も増えてきて、74年には、後にアメリカでドル箱のカードとなるアンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦しています。

 

ただし、若手の登竜門だった「カール・ゴッチ」では一年目が準優勝だったにも関わらず、翌年の第二回大会では全くふるわず、海外遠征への道は遠ざかっていきます。

 

第十一章では、「猪木VSアリ」戦について語られていますね。キラー・カーンも猪木の練習パートナーを務めていたようです。

 

 

 

西ドイツへ海外遠征 

第十二章では、初の本格的な海外遠征として西ドイツへ藤原喜明と共に旅立ちます。凱旋後は、猪木とタッグを組んでメインイベントに起用されるなど、少しポジションも上がってはきたようです。

 

猪木のパキスタン遠征にも同行し、アクラム・ペールワン戦でもセコンドについていたようですね。やはり、かなり異様な雰囲気の会場だったと述べています。

 

ただし、本人は翌年以降も伸び悩み、何とか現状を抜け出すきっかけを求めていたようです。

 

メキシコへ

 第十三章、77年からは帰国時期の決まっていないメキシコ遠征へと旅立ちます。このメキシコ遠征からモンゴル人としてのキャラクターとして試合を行うようになったようです。

 

また、このメキシコから、所謂「ヒール」としての仕事もしていきます。

 

メキシコでは、ミル・マスカラスIWA世界ヘビー級のタイトルにも挑戦していますし、カネックのUWAヘビー級にも挑戦しています。メキシコでも徐々にポジションが上ってきているようですね。

 

いよいよ本場アメリカマットへ

第十四章、いよいよ本格的にキラー・カーンが米国マットに登場します。私のようなオールドファンは、アメリカマットというだけで、勝手にワクワクしてきます!(^^)!

 

最初に渡ったのは、フロリダのマットで「キラー・カーン」のリングネームを使いだしたのもこの頃からだそうです。

 

モンゴル人というキャラや体の大きさもあり、ジャック・ブリスコやダスティ・ローデスなど、当時のアメリカのトップレスラーとも対戦し、着実にメインイベンターへの階段を昇っていきます。

 

第十五章は、フロリダで結婚した白人女性の事や「」と呼んでいるカール・ゴッチとの事が書かれています。

 

第十六章では、ジョージア、トライステート地区と転戦。体も130キロ近くになり、「モンゴリアン・チョップ」を武器にアメリカ永住を考えていたようです。

 

WWFヘ

第十七章、そして、ついにWWFからのオファーが来ます。マネージャーは、力道山と激闘を繰り広げたフレッド・ブラッシーです。

 

いいなぁ。まさにアメリカンドリームですね!

 

第十八章、この章では、当時WWFに修行に来ていた谷津嘉章にも触れていますね。

 

キラーカーン本人は、80年頃からボブ・バックランドのWWFヘビー級やべドロ・モラレスのインターコンチネンタルにも挑戦し、WWFでもメインイベントを任されるようになっていきます。

 

二度目の凱旋

第十九章、81年には、3年振りに新日本プロレスに凱旋していますね。

 

アメリカでメインを張っていただけあって、試合順などは良い扱いを受けていたようです。

 

ただし、ギャラに関しては、あまり良い扱いではなかったようです。

 

この章では、他に藤原喜明との「不穏試合」のいきさつについても語られています。

 

 

 

アンドレとの一連の抗争

第二十章では、名実ともにアメリカでトップレスラーとなったアンドレとの抗争の経緯が語られています。

 

レスラーである以上、対戦相手に欠場させるような大ケガを負わせるのはご法度ですが、相手がアンドレだったからこそ、逆にそれをチャンスに変えてもらえたのでしょうね。

 

そう考えると「運」が良かったとも言えますし、その運を掴むだけの実力をキラー・カーンが自身が身に着けていたとも言えますね。

 

第二十一章、翌81年になっても、対アンドレの需要は高く、日本や北米を中心に試合が組まれていたようです。

 

ただし、メキシコでは、ある横槍が入って実現しなかったようですね。

 

革命維新軍

第二十二章、83年からは、長州、マサ斉藤らと共に革命軍(後の維新軍)を決起し、日本でもヒールとしての立場になります。

 

維新軍発足の理由は、以外な理由でした(゜.゜)

 

第二十三章では、カルガリー時代の事が書かれていますね。

 

次いで、ダラス地区のリングにも上がっています。ダラスでは、グレート・カブキとも再会していますね。

 

そして、この時期に今後のキラーカーンの運命を左右する電話がかかってきます。

 

 

 

ジャパンプロレスに参加し、全日本プロレスのリングへ

第二十四章、紆余曲折がありながらも、念願だった馬場、全日本のリングに上がる事になります。

 

全日本時代は、馬場さんともシングルで戦っているのですね。

 

また、メキシコでのアンドレ戦を中止に追い込んだ人物とも、全日本で再会します。

 

人から聞いた話を鵜呑みにして、この話は、少しひどいなぁ。もし誤解だったら、どうするんだろう(^_^;)

 

第二十五章では、85年にハンセンやブロディとオーストラリアに遠征に行った事などが書かれていますね。

 

wrestling-book.hateblo.jp

  

またタイガージェットシンとのサウジアラビアでの試合についても書かれています。

 

第二十六章、この頃のキラーカーンは、もう全日本には飽きてきていますね。

 

また全日本プロレスも日本人選手が増え過ぎて飽和状態になってきます。

 

冒頭で触れたロード・ウォリアーズとの試合についても書かれていますね。

 

なるほどなぁ、キラー・カーンは、ジャパン勢を裏切って、カルガリーハリケーンズと共闘していくストーリーだったのですね。

 

因縁の長州ともシングルで戦っていますが、納得のいく試合ではなかったようです。

 

ジャパンプロレス解散

第二十七章、理想をかかげて発足したジャパンプロレスも社長の長州が新日に復帰したりして分断していきます。

 

一方、キラー・カーンのほうは、WWFに復帰し、ハルク・ホーガンとの抗争が組まれていきます。

 

 

 

引退試合無き、引退

第二十八章、WWFでの仕事は順調に進んで行きますが、長州の新日復帰の経緯を知ったキラーカーンは、急激にプロレスへの情熱を失っていきます。

 

結局、WWFのボスのマクマホンjrや抗争相手のハルク・ホーガンからも引き留められますが、引退を決意してしまいます。

 

それにしても、30年も経っているのに、長州への怒りの感情は、凄まじいですね。

 

あとがき

あとがきでは、引退後の居酒屋経営の事や天龍からSWSに誘われた事などが書かれています。

 

 【蒙古の怪人、キラー・カーン自伝の感想】

 

キラー・カーン自伝を読んでみた感想は、う~ん、やはり何でそこまで長州を恨んでいるのかが最大の疑問ですよね。

 

理由は、色々と書かれていますが、プロレスラーとしては、ギャラで移籍するのはアメリカも日本も同じでしょうしね。

 

しかも、キラー・カーンジャパンプロレスだけに所属していただけでなく、自分はアメリカでも仕事をしながらですからね。WWFでもしっかり稼いでいた訳ですし…、何か書けない理由が他にもある気がしますね。

 

とはいえ、全28章、255ページで楽しめました。私の知りたかった海外での話もたっぷりでした。

 

総合評価は、☆3.5といったところでしょうか。

 

一度は「居酒屋 カンちゃん」に行ってみたいですね(^-^)

 

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